教育方針

伝えたい思いはシンプルであればいいなんていう信仰はあるけれど、それはすべて時と場合によってなんだと思う。言葉をシンプルにしてしまって、簡単に伝えてしまって、あなたはわかってくれない、それなら、「それまでの関係だった」と、簡単に切り捨てたくないから、言葉を選んでしまうのにね。コミュニケーションがうまくとれないのは、信頼関係が上手に結べていないだけなのかもしれない。シンプルな心境に行きつくまでのぐちゃぐちゃの葛藤を、たったひとことのシンプルな言葉だけで伝えられないし、シンプルな答えに行きついたところで、その過程が同じだとは限らない。同じではなくて、理解し合えないからと、「それまで」だと見限ってしまうような関係は悲しい。
否定されて、断ち切られてしまったことはあるし、私もいつも、「私は切るつもりはないけれど、あなたが切るつもりなら、仕方ないな」と諦めていたけれど、最近はつながりを簡単に断ち切りたくないから少しがんばることも覚えた。それは、「私が」切るつもりはないから。相手が切るつもりでも。いくらか努力はするようになった。それでも嫌悪されたり嫌われたり否定されたり、存在を無視されたり、うざがられたり、むかつかれたり、するし、関係を修復しようと頑張っても、いつまでもそうされることでもちろん私だってむかつくし、きらいになるけれど。そういう関係についてはまだ答えは出ない。嫌われたら嫌い返す方が自分は守られるけれど。まあ生理的に無理な場合は、「仕方ない」と諦めるしかないかもしれない。今は諦めることもひとつの関係だと想うことにしている。
「理解」と「共感」は関係を結ぶ大きな要素になる。だけどそれだけじゃない、理解できないひとつの考えをもつ人を、向こうが拒否しない限り、面白い!と話をする。だって面白い!理解できない人って、面白い!私を「理解できない」と、言ってくれるところが面白い!それで私との関係を断ち切らないところが、面白い。共通事項がなくても、拒否をしない限り関係は保ち続けられる。
私はいつも、どちらでもいいしなんでもいいと思うけれど、それは他人に興味がないからだとおもっていたけどそれも少し違って、あなたが何をどう選択したか、それ自体に意味があるのだから、それはあなたをかたちづくる一つとなるのだから、だから他人にどう言われようとそれはあなた自身が選択すればいい、するべきことなのだとおもう。けれど、他人がどう思おうとそれは私、だとか、そういう頑固で意固地な感覚とも少し違って、違いは何かといえば、それは最大限相手を思いやっているものであるということ。何かを選ぶことの前提に、思いやりがあるのなら私は、なんでもいいし、どちらでもいいと思うの。それが私の受け入れられないことでも、その人自身を簡単に切り捨てるつもりはないし、そういうところはだめだねえ、でもこうゆうところは素敵だねえ、で、いいんじゃないかなあ。大前提の思いやりこそあれば。もちろん理解できない人も、理解しあえる人も、すきも嫌いも、私にもある。私にあるからこそ、理解し合えない人も、私の話をきいてくれる。私を好きになってくれる。嫌いにもなる。
嫌い、無理、生理的に受け付けない、理解不能、意味不明、ただむかつく、なんかイライラする、きもい、ブス、きにくわない、いらつく、調子こいてる、常識がない、臭い、デブ、とか。いいこぶりっこで嫌い、男好きで嫌い、どっちつかずで嫌い、口ばっかで嫌い、あいつに傷つけられた!否定された!馬鹿にされた!とかもあるんだけど、それが、「私が悪意をもったせい」ではないこともある。
見ず知らずの人の悪意にふれてしまって容易に傷つくし、気付かずに傷つけることもあるし、傷つけられることもあるし、難しい。
難しい難しい!それでも、そんな簡単に、人は人に悪意ももたないし、逆に好意ももたない。だけど、思いやりをもってほしい。思いやりをもとう。おもいやり。