教室に向かう廊下をあるくと、水気が頬にあたった。しろくくもった窓のそとがぼんやりうすぐらかった。「雨かな」と、呟く。「昨晩ふっていたじゃないか」と前をいく後ろ姿が答えた。「そうだったかな」「ずいぶん深く眠っていたみたいだったから、きこえなかったんだね」キュキュとくつの音がひびいた。よくみがかれた床も湿気を含んでいる。「うん、そうなんだ。ずいぶん久しぶりに、なんだかきもちよくねむれたんだ。」僕は彼のほうを覗き込むようにいった。彼の横顔をみた瞬間、耳の奥に、昨晩の音がよみがえるような感覚がおきた。不明瞭な記憶の、ほんのすこしのところに、ここちよい声がきこえた。雨音に、消えてしまいそうな声。前を進んでいた彼は、教室の戸をあけて、立ち止まる僕に気付き、ふりかえって不思議そうにこちらをみていた。教室の中からは、生徒たちのざわめきがきこえた。「どうしたの」という、声をきいて、ふとなにかがつながった気がした。「ねえ、君、うたをうたっていた」彼がおどろいたような顔をした。「うたっていたでしょう」彼は何もこたえない。僕はなんだか胸がわくわくするようなきもちでつづけた。「ここちよい声だねえ、きづかなかったけど きみはうたがうまいのだね」教室の中からクラスメイトがのぞきこんでいた。僕がそういうと、彼はなにかばつの悪そうな顔をして、教室にはいっていった。なにかきにさわることをいってしまったのかと、妙なきもちになって、その後に続いた。すると、数人のクラスメイトに声をかけられた。「委員長のうたをきいたの?」そばかすをくしゃっとさせた笑顔で聞かれる。「うん昨夜ね。」ずりおちそうなメガネを直していきおいよく尋ねられる。「彼、うまいでしょう、あの学年代表のソロをきいた?」「しらない」「年度末に、合唱祭があるんだ。みものだぜ」かねがなって、がやがやとみんなが席に着いた。前の扉から先生が姿をあらわして、彼が起立礼と声をあげた。僕の席は窓際の一番後ろなので、教室全体を見回せる。ちょうど視界のまんなかあたりに、彼のピンとした背すじが見えた。僕にはなんだか、かれのことがわからなかった。