出会い

ご飯を食べに行こうと思いついてすぐに、雨の降る中車を出した。運転をした分ガソリン代を払ってねという母親の声が私の背中にそっと張り付いた。母親の脳が委縮し始めているときいたのは一週間ほど前だ。主治医の高野先生は表情を変えないでいった。症状の一つでもあるし老化でもあるといった。私は薄暗い午前中の雨の中、ゆっくりと車を走らせた。以前友人といったあのお店に行こう、道はうろ覚えだけれどその時はどこかのファミレスにでも行こう、私は雨で見通しの悪い、薄暗く狭いほとんどまっすぐな道を走った。
その店に一緒にいった友人は、2か月前に仕事を辞めた。やりたいことをやるために、だけど生きるために仕事を探しているのだと言った。そういえばその日も雨が降っていたなあと思い出しながら、見覚えのある交差点を曲がった。雨が少し強くなった。入口の一番近くに駐車して急いで店のドアをおした。髪をざっくりとまとめたお姉さんが二階の席へ案内してくれた。二階には私以外に誰もいなかった。知らない洋楽が耳障りでなく流れていた。窓際に座ると、髪を上げたお姉さんではなく、ひげをはやしたお兄さんがお冷とおしぼりとメニューを持ってきてくれた。どれもおいしそうで決められずお兄さんに「おすすめってありますか」とたずねた。お兄さんは微笑んでおすすめのメニューの3品を丁寧に解説してくれた。優柔不断な私はどれにもなかなか決められなかった。「どうしましょうかあ」と笑ってきくと、お兄さんも笑った。
「お客さん、以前もいらしてましたよね」
「え、あ、そうですねちょうど一週間くらい前に…」
覚えているものなのかと少し驚いた。お兄さんはまたにっこり微笑んでメニューに視線を落とした。
「そのときは何を頼まれたんですか?」
「あ、このどんぶりですね」
「ごはんものがお好きですか?」
「おみそしるが好きなんですよ」
「それならこちらがいいと思います」
「あ、じゃあそれで」
「あっさりきめますね」
ははは、と笑いながらお兄さんは下の階に降りて行った。背もたれによりかかって窓に打ち付ける雨をみた。強くなったり弱くなったり波のような雨だった。雨の日はずっとねむくなる。私は目を閉じた。雨の音と店内の音楽は心地よかった。携帯がポケットで小さく震えた。

「お待たせしました」
はっと目をあけると先程のお兄さんが立っていた。机の上には料理がすでに並んでいた。
「ありがとうございます」
「お疲れですか」
苦笑いをするとお兄さんと目があった。細いけれどまぶたのふたえはばがくっきりとした、たれた目だった。好きな目だな、と思った。
「どんなお客さんがきたかって結構覚えているものですか」
目をあわせたままできくと、お兄さんは口元を拳でおさえて笑った。
「常連さんじゃないと覚えないですね」
「私2回目ですよ」
「1回目の印象が残っていました」
「うるさかったですか」
「いやタイプでしたね」
チャラいな、と思った。にやにやと笑ってガムシロップをアイスティーにいれてストローでまぜた。簡単な人間関係を築くのが随分と得意になったものだ。むしろ、簡単な人間関係を好むようになったのだなあと思った。簡単な関係であっても、長く付き合っている関係であっても、基本的にはあまり変わらない関係を築くことがくせになっていた。ただどれだけ自分自身をさらけ出すことができるかが自分の中での基準になっている。長く付き合っても、私を傷つけることができないように、他人に無関心に生きてきたのだ。怖がりなのだ。
「よければ少しはなしませんか」
お兄さんはいとも簡単にいってのけた。
「ナンパですか」
「ナンパです」
私はちっとも不快ではなかったので、いいですよと、いとも簡単にいってのけた。