僕たちは初めて、抱きしめあった。

「思えばさえない人生を送ってきたもんだワ。」
彼女とお酒をのむときはいつもチェーン店で、ざわついた雰囲気の、机や床がベタつくような居酒屋である。僕は箸を逆に持ちかえて串焼きをすべて串からはずしながら、座敷の向かいに座る彼女のため息を受けた。薄暗いオレンジのライトで照らされていようと、彼女がうつむくとはっきりとクマがみえた。ファンデーションで隠しきれないニキビが頬にかすかな凹凸を作る。彼女は僕がとりわけたシーザーサラダを箸でつつきながら愚痴をこぼす。
「初恋は小学2年生のときね。きっかけはなんだったかしらね。もう覚えてないけど、とても好きだった。そこから6年生になるまで一筋だったワ。少しは仲が良かった、と思うのよ。アタシを介してラブレターを渡す女の子もいたもの。そうね、モテる男の子だったワ。」
ソーダで割った梅酒をひとくちなめて机におくと、炭酸が水面にたちのぼった。
「その子は小学生のくせに、6年生になるまでに3人くらいの女の子と付き合ったりしてたわね。もちろんアタシなんか眼中になかったと思うわよ。でも小学生なんて現実なんか見れないじゃない。少しはうぬぼれてたこともあるわよ。今考えれば、どれだけ良心的に解釈したって、すこしも期待のもてる事実なんてありはしないのに」
僕は、そうなの、と曖昧に返事をしながら砂肝をつまんでかみつぶした。ゴリゴリとした食感をたのしみながら、この間行ったやけに値段の高いお洒落な居酒屋(居酒屋といっていいのかわからないけど)で食べた砂肝よりも、よっぽどうまいな、と思った。僕は彼女の方に視線を向けると、彼女は僕の適当な返事など意に介さず、梅酒をひとくちなめ、机において、また口を開いた。僕はマスカラが落ちて彼女の涙袋にはりついているのが気になった。
「次は中学2年生のときね。隣の席になったバスケ部の男の子。その子には、1年生の時からつかずはなれずだった可愛いテニス部の女の子がいたのよ。その女の子がいることは知っていたワ。なんだか好きになっちゃったけどね。まあ、この2人、結局3年の初めのころに付きあうんだけど。このときから、相手のいる男の子を好きになりやすかったのかもしれないわね。」
彼女は僕が串からはずしたねぎまのネギをつまんで口に運び、左手で口元を覆いながら咀嚼した。
「中3の時に、アタシがその彼のことを好きだなんて噂が流れてね。まあ、噂というより、本当のことなんだけど。それでその可愛い彼女によびだされてね。彼女は友達をひきつれて、そうね、3人にかこまれて、もう彼と口をきかないで、って言われたワ。」
「ばからしい話だね」
「そうでしょ。ほんとばからしい。くっだらない。だってその女の子は彼と付き合ってんのよ。彼がアタシのこと少しでも好きでいてくれてたら、いいわよ。うけいれるわ。でも、そんなこと微塵もありゃしないのよ。ただ彼女がアタシを気に食わないってだけだったと思うわ。くっだらないでしょ。」
また大きくため息をついて、彼女はちらりと僕の手元を見る。僕はその視線に気づかないふりをして、彼女の涙袋にはりついたマスカラを左手でぬぐった。彼女は僕が手を伸ばしても、身を引くことはしない。ただ僕が手を伸ばしても、自ら近づこうともしない。僕が抱きしめると、抵抗はしない。ただ、抱き返してもこない。僕が初めて彼女を抱いた時、初めて彼女の肩にふれたとき、彼女は一度だけ身をこわばらせた。彼女は僕を拒まない。ただ彼女は、僕を求めても来ない。それが僕にはあまりに丁度よかった。僕は指についたマスカラを彼女にみせた。彼女は、ありがと、といった。
「高校生の時初めて告白されたワ。クラスの違う背の低い男の子。でもアタシは付き合わなかった。高校生になってから同級生の男子のことムシケラみたいにおもえたわ。中身カラッポで、欲望が先行して、自意識が過剰で、繊細な男子高校生なんてバカだとおもってた。まあそれは、女子高生もおんなじだったんだけど。それこそアタシは特別で、人と違くって、自分はこんなとこでくすぶってるはずじゃない!って思ってたわ。まだ夢も希望もあったのね。カワイイと思えるわ。むしろこのころはまだかわいげってもんがあったわ。」
「大学生になっても恋人はできなかった。処女のまんまではたちをこえるのは、アタシもひとなみに恥ずかしい気がしたわ。なんだかとんでもないハンデみたいな気持ちだった。アタシがバカにしてる地味な女の子だって、彼氏がいてセックスもしてたら、アタシよりレベルが上なんじゃないなんてこと、思った。くっだらないでしょ。ただ男の子に女の自分が求められたことがないなんて、ものすごいハンデみたいに思った。ああ、アタシ少しも魅力ないんじゃないかと思ったわ。そして見る目のない男の子のことをバカにした。くっだらないって見下した。自分が一番くだらなくなってること、多分きづいてたけどみとめたくなかったのね。」
「そのまま社会に出たわ。営業にまわされて毎日くたくただった。何回目かの飲み会で、酔っぱらって上司にされたキスがアタシのファーストキスだった。もちろんその上司にはちゃんと怒って殴って、女子社員達でこきおろしてやったわよ。でもそれがファーストキスだなんて、誰にもいえなかった。情けないことに、家に帰って、ひとりで泣いちゃった。アタシが大事にしてたものって、なんだったんだろーって。」
彼女は目の前に出されたものをきちんとたいらげて、何杯目かの梅酒をのみほした。首が赤くなっていた。どうやら少しお酒がまわっているようだった。僕はトイレにいくついでに会計をすませて、彼女をたたせて店をでた。大通りに出てからタクシーをひろい、彼女の家にむかった。彼女は目をとじて僕の肩にもたれかかった。息のリズムからすると、寝たフリをしているようだった。
タクシーを降りて、2人で彼女の部屋に入った。
「アタシと初めてしたとき、まさか処女だとは思わなかったでしょ」
「うん」
「やばいっておもった?」
「そりゃね」
「重いなーっておもった?」
「その質問が重いな」
「最低!」
彼女の座るソファのとなりに座った。彼女の寄りかかるせもたれに腕をまわして、ソファにひろがった彼女の髪をつまんだ。僕は彼女の髪が好きだった。彼女は深く息をした。僕は彼女の腰に腕をまわして、下腹部に頭をのせた。しばらくしてから、彼女は僕の頭に手をのせた。彼女から僕に触れようとするのは、珍しいことだった。
「ねえ」
「うん?」
「アタシに彼氏ができそうっていったらどう思う?」
「……」
「妬く?」
「うーん」
僕は彼女にキスをした。彼女は拒まない。そのまま腕を首にまわした。彼女は拒まない。僕は彼女の髪をなでた。彼女の肩に頭をのせた。彼女は珍しく、僕に腕をまわした。そして、ぎゅっと力を込めた。僕はそのまま動けなくなった。彼女の顔は見えない。
僕たちは初めて、抱きしめあった。

「アタシね、こうして抱きしめあう男の人がほしかったの」
僕は動けない。
「こうしているのすごく救われた」
彼女の声は震えた。
「ほんとうに救われたのよ」
彼女はこの部屋で、泣いたのだろう。ひとりきりで。ファーストキスを、うばわれた夜に。