甘言

「辛いならうちにおいで」
携帯電話ごしの声を左耳でうけとった。
「今は何もしなくていいんじゃない」
指先がふれて、たどるように手をつなぐ。
「不安ならよりかかっていいよ」
うなじに優しい言葉と熱い息がかかる。
「怖いなら目を閉じな」
左手で私の髪を撫でた。
肩越しにのぞく小さな窓から、ひとすじ薄青いひかりがさす。
そこだけ冷たい。そこだけ冷たい。夜明けの青さでそこだけ冷たい。



どうしてだか最近は涙が出ない。泣こうと思えばすぐにでも泣けるけれど、泣こうと思わなければ涙が出ない。泣けると豪語する映画を見ても、もうきっと会おうと思わなければ会えなくなる友人たちとの別れのときも、祖父が亡くなった時も、失恋したときも、とてもいい音楽をきいても、涙があふれてこぼれない。胸がすかすかとしている。色でたとえるなら、うすはいいろ。みずいろにちかいような、夏の夜明けの、4時くらいのときの世界の色。それに近い。ひんやりと、それでもたっぷりとした水蒸気をふくんだ夜明けの空気の色。それに近い。いつでも水はたたえているけれど、こぼれない。ここしばらくはそんな心もちでいる。乾燥しているわけではないので、ぎゅっとおしこめば、液体となってにじみでてくる。にじみでてきた涙は、とても熱い。とても熱い。冷たい世界でゆいいつ熱い。