みどりちゃんのふしあわせ 1

以前文学フリマで出した小説です。


一、みどり

 緑はいくら自分が誰か、何かに対して心を砕こうとも理解のされない、受け入れられることのない事実のあることを知っていた。自分の愛情や親切が通じることがない事実の存在することを知っていた。諦観という言葉を知る以前の年の頃からすでに、彼女はいくつもの事実に対しどこかでじっと諦めていた。その見返りの無さ、徒労に終わる事実はこの世界のきっと本質であり、誰にでも起きうる現実であることに違いはなかったが、それを実感を持って認知するようになってしまうほどに、彼女にはあまりにいくつもの小さな不運な出来事が重なって起きてしまった。それがごくごくありがちな出来事であっても、様々な負の要素と要素が不都合に重なり合って、彼女の優しさや好意を不躾に殺してしまった。

 物事を諦めてしまう以前の緑は、もちろん自分におきる不運な出来事に対して正当な不満を抱いた。その不運は、彼女のせいではなかったし、もちろん誰かのせいでもない、不条理なものでしかなかったために彼女の不満は行き先を失った。責め立てる対象を失った不満は未消化なまま、解消されずに負のエネルギーとして彼女から吐き出された。緑はまだ幼いころ、ひどい癇癪持ちであった。小さな出来事で火のついたように泣き、力任せに物を投げた。しかし彼女の不幸はまたその理解のされなさにあった。例えばアトピー性皮膚炎であった肌を、血が出るほどにかきむしって泣き叫んだのは、かゆみのためだけではなかったことに母は気付かなかったし、通っていた幼稚園の同級の男の子をけっ飛ばした理由は、クレヨンを折られたことだけが原因ではなかったことに、担任の保育士は気付かなかった。

 成長し言葉を覚えるようになってからは、緑の体をめいっぱい使った怒りのデモンストレーションは収まりを見せたが、言語化されることによって小さな不運の一つ一つが明確になった。言葉にして不満をぶつけているうちに、それがどれも小さな、取り立てて騒ぐ必要のない出来事であることが緑自身にも理解されるようになった。蓄積された小さな不満の一つを誰かに愚痴としてこぼしたところで、彼女の不幸さに見合う反応を示してくれる理解者や、寛容さをもつ友人を作ることなどはかなわなかった。誰もが、ほんの少しずつ幼すぎたのかもしれない。緑自身も、自分の不満の要因をほぐした一つ一つの軽さを知っていたために、イライラとしてしまう自分の器の小ささを嘆いた。その積み重ねと、ほぐさずに見たときの不都合な組み合わさり方が、絶妙に緑自身にしかわからないような傷をつけるという不運さを、彼女は理解しきれていなかったし、誰かに理解されることはなかったし、理解をしようと働きかけてくれる存在も持たなかった。そうしてそれらは、彼女の好奇心や愛情を殺してしまった。

 そうして殺されてきた彼女の優しさや好意や好奇心や愛情は、すべて諦めるということを知ってしまった。諦めという言葉をよしとしない世間の正しさを知っていた緑は、それでも自分自身の心を守るために、ため息をついて諦めた。それは彼女の強さであり、またその強さがより彼女に上手な諦め方を与えてしまった。周囲が大人になった時に、幼い時のように不満をぶちまけて泣き縋ればもしかしたら、本当にもしかしたら、誰かが手を差し出してくれたのかもしれない。緑が本当に欲しいと望み、必死で誰かに呼びかければ、応えが返ってきたかもしれない。緑の不運さそのものがなくならなかったとしても、人より不運なことが起きてしまって傷ついてきた緑のことを理解してくれる存在が、もしかしたら現れたのかもしれない。そうしてその理解者の存在することは、緑の心を救ったのかもしれない。物事を諦めることのできる彼女の強さが他者に認知されることが、どれほど彼女の心を救う事になっただろう。しかし理解のされなかった幼少のころの記憶が、じっと彼女の心を強くしてしまった。自分自身の仕方のないことを、誰かにそのまま乱暴に投げつける甘え方を、自分自身を投げ出した時に受け止めてくれる存在の、どれほど心の慰めになるかを、彼女は知らなかった。

 緑はいくら自分が誰か、何かに対して心を砕こうとも理解のされない、受け入れられることのない事実のあることを知っていた。自分の愛情や親切が通じることがない事実の存在することを知っていた。しかし彼女はやはりいくらか人よりも不運で、知らなくていい年の頃に、知らなくていいことを、どうにかすれば受けずにすんだかもしれない傷を、すべて、真摯に受け止めすぎてしまった。彼女の最大の不幸は、自分自身の不幸さに気付けないでいたことだったのかもしれない。