みどりちゃんのふしあわせ 2

完結です。


二、かげお

 影男は来週提出するレポートの資料を探すために大学の図書館にいた。必要な資料を検索し、文献のコピーをとるために財布を持って地下へ降りた。地下の部屋の一番奥の電動書架に行くと奥の本棚の隙間から明りが見えた。どうやら先客がいるらしい。影男に必要な資料をとるには、奥の本棚にいる人が出てから書架を移動させなければならない。影男は別の書架にある本を見てしばらく待つことにした。

 五十音順に揃った本の背表紙をながめながら、影男は自分の彼女である緑のことを考えた。緑と出会ったのは影男が3年生になってすぐの入学式の日だった。影男の所属する、陸上競技サークルと銘打った飲み会ばかりを行うサークルが、新入生歓迎会を開いたときに、何十人といた新入生のうちの一人として緑はいた。ひととおり自己紹介をすませてから先輩や同級生たちは好き勝手にのみ、可愛い顔をした新入生の女の子たちにいそいそと話しかけていた。緑は特に目を引く存在ではなかった。緑の右隣に2年生の男が座り、左隣には可愛い顔をした新入生の女の子が座っていた。右隣の男は左隣の女の子を気に入ったようで緑をはさんで話していた。それからいったい何がどうなったのか詳しいことは分からないが、緑の右隣の男が吐いた。サークルの中でもきちんとした性格の中山先輩と店員と緑が片づけをしていたが、左隣に座っていた可愛らしい女の子は別の顔立ちのいい男の隣に立ってそれを見ていた。影男は中山先輩を手伝おうと傍により、緑の隣にしゃがむと、緑の服に汚れが付いているのに気がついた。おしぼりでその汚れをぬぐってやると、苦笑いをしながら緑がありがとうございます、とつぶやいた。その笑いと声の暗さに影男は、(そりゃあ知らない男のゲロがかかったら落ち込むよな)と思い、「運なかったね」と声をかけた。そうして自分のはおっていたシャツを脱ぎ、「よければこのシャツ着て、ここは片づけておくから」と言った。緑は驚いたように影男をみて、シャツをそっと受け取った。その時の緑の反応を、影男は特に気にかけることはなかった。緑はまたありがとうございます、とつぶやきその場を離れた。その後歓迎会は解散の流れになり、2次会に参加する者とに分かれた。気乗りのしなかった影男は駅に向かって歩きだしたが、背中をトンとおされて振り向くと影男のシャツに着替えた緑がいた。「お、彼シャツ状態だ」と言って笑うと緑も照れたように笑い、自分の名前をいって影男に名前と連絡先をたずねた。週が明けたときに、きちんとアイロンがけされたシャツとゼリーの詰め合わせを緑から受け取ると「どんだけ律儀だよ!」と言って笑った。

 影男はあまり深く思索しない性質であった。更には自分が受け取ったものでしか物事を捉えられない性質であったが、それは先入観のないフラットな感性であるともいえた。自分の見たままを信じる我の強さはあったが、持ち前の要領の良さと明るさと図々しさで、どこか憎めない人間性を形成させた。緑はお世辞にも綺麗な顔立ちではなく、あまり明るいとは言えないし、昔から緑を知る人からも好意的な意見を聞くことはあまりなかったが、それが影男にとっての緑の評価に影響を及ぼすことはなかった。ただ単純に影男がみたままに、緑の生真面目な性格や、少しずれた気の使い方や、不器用な優しさを好意的に思った。半年ほどしてから影男から告白をして付き合う事になった。そして付き合ってからまた更に半年が経ち、ちょうど出会ってから1年になった。影男にとっての緑は今でも、生真面目な性格で、少しずれた気の使い方をする、不器用な優しさをもつ女の子のままであった。この影男の緑に対する評価は、今までの誰の評価よりも一番緑をそのままに評価したものであったかもしれない。それがどのような複雑さで形成されたものかは影男の思索の及ばないところにあるが、だからこそ単純な枠に緑のことをあてはめることができたのかもしれない。しかしこの1年、見たものをそのまま受け取ることのできる影男だったからこそ、自分で作った昨日までの先入観にすら左右されない影男だったからこそ、彼氏という立場で半年間緑を見ていたからこそ、感じとることのできる何か言葉にできない違和感に、影男はようやく気付き始めた。

 電動書架の明りが消えるカチンという音にはっとして、影男は資料を探そうと顔を上げた。
「あれ、影男先輩」
 本棚から出てきたのは緑だった。手に数冊の古い雑誌を持っていた。緑は影男の傍に近づいて、またレポートの資料集めですかと言った。直前まで緑のことを考えていたので、緑の登場に影男はほのかに高揚した。
「来週までのレポートがまた出てさ、龍田先生の宿題好きには参るね」
「先輩、先々週も龍田先生の授業の調べ物してた」
「まあ面白い授業だからいいんだけどさ……」
 2人は声をひそめて会話をしていたが、緑と影男以外の人は周囲にいないようだった。
「そういえば、資料探すのけっこう時間かかってたね」
「うん……それが、私が見たかった雑誌の巻だけ抜けがあったみたいで、何度か確認してたら時間かかっちゃった。これから図書の職員の人に確認してみる」
 そう言うと緑は苦笑いをした。この苦笑いを、影男は何度も繰り返し見てきた。今まで深く考えていなかったけれど、先ほど何とはなしに考えていた、言葉にできない緑への違和感の正体は、もしかしたらこの苦笑いにあるかもしれない。影男はこの違和感を、単に言葉にできないからではなく何か言ってはいけないことのように感じた。しかし同時に言わなければならないことのようにも感じた。
「緑」
「なあに」
「緑はついてないよね」
「まあね、改めて言わないで欲しいなあ」
 苦笑いをする緑を、影男はまっすぐにみつめた。
「俺はさ、そういうついてない出来事を、苦笑いをしてやり過ごすのは緑のいいとこだと思う」
「……ありがとう、どうしたの突然」
 緑はほんの少し不安げに眉を寄せた。緑の自慢の重たい一重の切れ長の目を、影男は見た。
「そうだな、俺は基本正直な男だから、緑に対して思う事はそのまま伝えてきたと思う。ただあまり頭の回る方ではないから、ほんの些細な心の機微なんか、読み取ることができないでいるよ。緑はどちらかというとそうした他人の心の機微に敏感で、気をまわしている。そういう部分を俺はわかっている。緑のきちんとしたところと、気遣いと、不器用な優しさを、尊敬している。」
「……」
「ただ、それがなんだか単なる緑の表面のように見えてきたんだ。浅はかな発想だよな。優しさが表面的で内面に本心を隠しているんじゃないか、なんて、ほんとありがちな発想なのかもしれないけど、緑のどこまでも自分自身にふりかえらないところというか、優しさや気遣いが少しも自分に向かないところとか、今さらかもしれないけど違和感を覚えるようになった。俺はさ、よくわからなくなった。誰かのためばっかりで、緑の意思はどこにあるんだろう、って思うようになった。どうしてそんなに諦めてるの?ついてないことがあったら、文句をいったっていいよ。俺そういうの聞き流すの得意だし、それに俺は緑が思っているより、緑のことが好きだよ」
 影男は、ゆっくりと考えながら、言葉を選んだ。戸惑ったような表情を見せていた緑から、徐々に表情が消えた。涙ぐむでも喜ぶでも、困るでも怒るでもない、なんの表情もない顔になっていくのを、影男は見つめていると、おもむろに緑が口を開いた。
「影男先輩……」
 影男は緑を見ている。
「……私、ついてないことがもしかしたら人より多くあるかもしれないけど、それはもう運命みたいなものだと思っているから、いちいち取り上げて不満をいうのは、私自身が疲弊するから言わないだけだよ。それに騒ぐほどの不運でもないし……影男先輩みたいな、両親を亡くしていたとしても、泣きごとを言わずにきちんと生活している、尊敬している人に、そんな小さな不運を愚痴るなんて、そんな格好悪いこと私がしたくない。私は誰かのためとかじゃなくて自分のことばかりだよ。先輩が、そうやって私を褒めてくれるから先輩の好きな緑でいられるんだよ。」
 緑は表情のない顔で、まっすぐ影男をみながら続けた。
「でも私、もし先輩の言う、からまわりする気遣いや不器用な優しさの裏に、複雑な思惑があったとしても、そんなの別に理解してほしいなんて思ってない。私自身がわかってないし、そんな明確なものじゃない。私が諦めてしまっていることを、私が諦めないようになんて、してくれなくていい。先輩が諦めないでいてくれるならそれでいい。全部おなじじゃなくていい、分かってしまわなくていい。そんな一つ一つを解き明かしてしまったら、私のしょうもなさが先輩にばれてしまうかもしれない。だったら私は、先輩にもっと、私に違和感を覚えていてほしい。理解のできないままでいてほしい。先輩、先輩は、理解できないのは辛いのかな。私が内心に取り繕う部分があったらそれは先輩に嘘をついてることになるのかな。私の押し殺したい部分も見せないと信頼していることにはならなくなるのかな。私はいつも不安で、本当は、先輩が私を嫌になってしまうんじゃないかってすごく怖い。先輩はいつも安心を与えてくれるのに、私はいつも不安で、きっとずっと隠してる。物事には人によって理解のできないものがあること、私知っているから。でも私、不安でいると、先輩のこといっぱい考える。ねえ、私、私の、頑張ったつもりの優しさが通じなかったことに、傷ついたことがあったのは本当。その傷ついたことが、何回も何回もあったことは、本当。でも、それを不器用な優しさなんて、そんな優しい言葉で先輩にあらわしてもらって、そういう不器用さを好きだと言ってもらえて、私は本当に、ほんとうに、どれだけ嬉しかったか、先輩は理解できないでしょう。」
 影男は思わず緑の肩をつかんだ。表情のない顔を見ていただけではわからなかったが、緑の肩はほんの少し震えていた。思わず抱き寄せると体は冷たく、じっと汗をかいていた。両腕に力がこもる。影男はこれが緑の正体なのかもしれないと思った。無表情に心を打ち明けながら、体は冷たく震えてじっと耐えているのだ。


(了)